1957年「東京無情」(作曲:船村徹、歌:)• その家の娘であるまき子()に密かに思いを寄せていた浩二だが、実はまき子は戦死した恋人のことを忘れることができずにいた。
そんな鉄男のことを思い、裕一は母校である小学校の校歌を一緒に作ることを提案する。
その後、3年ほど家業を手伝いながら、勉強を続け、大正13年に福島民友新聞社で働くようになった。
そんな鉄男を見た母は、鉄男もこんな家は捨てて自分の道を歩いていけと言った。
1950年「薔薇と蜜蜂」(作曲:古関裕而、歌:二葉あき子)• 野村俊夫は、昭和4年に流行した「東京行進曲」の影響を受け、「福島行進曲」を作詞すると、古関裕而が「福島行進曲」に曲を付け、昭和4年の秋に、「福島ハーモニカ・ソサエティー」の演奏会で「福島行進曲」を発表した。
この頃からフリーの作詞家として本格的に活動を開始する。
この「ほんとにほんとに御苦労ね」はヒットし、戦地の酒盛りの時によく歌われていたという。 この詩碑には、県知事・木村守江の筆で「暁に祈る」が刻まれた。 1954年「元気でね、又逢おう」(作曲:三界稔、歌:青木光一)• 東京へ出ればなんとかなるだろうと考えていたのだが、東京は昭和恐慌のまっただ中で、「失業都市」と呼ばれており、事務員をやったり、印刷屋の手伝いをしたり、おでん屋「太平楽」を開業したりと、「泥棒以外は何でもやった」というほど苦しい生活を送った。
同年、古関裕而と組んだ初のレコード「福島行進曲」が発売され互いにデビュー作となった。
「湯の町エレジー」が大ヒットしたので、野村俊夫の長女・野村則子は、学校の先生からも「エレジー」と呼ばれた。
1948年「南の薔薇」(作曲:、歌:)• 作詞家・野村俊夫がモデル 古関裕而の幼なじみ 村野鉄男は、作曲家・古関裕而(古山裕一のモデル)の幼なじみだった作詞家・野村俊夫(1904-1966)がモデル人物と考えられます。
野村と同郷の古関裕而、伊藤久男らがゲストとして出演した。 弟をかわいがっていた鉄男は必死に探すが、半年経っても見つからなかった。 また、本名では父親に見つかって「道楽息子め」と、どやされるため、ペンネームを使用したという。
7村野鉄男は古関裕而とともに活躍した作詞家・野村俊夫がモデルとなっていますので、簡単な経歴や代表作などもまとめます。
野村俊夫さんの代表作品 以下、野村俊夫さんが作詞した主な曲になります。
野村俊夫ショー() 登場する作品 [ ] テレビドラマ [ ]• 先生や友達の縁を大切に』…鉄男の話にジーンときました」「藤堂先生の戦死以降、久しぶりに心が洗われた。
野村俊夫は、福島民友の編集部、報道部で文芸欄を担当していました。
世のなかの人々の生活も豊かさを取り戻しつつあった。
野村俊夫は、「暁に祈る」には勝てなかったが、「湯の町エレジー」が戦後最大のヒットとなった。
1953年「見ないで頂戴お月さま」(作曲:古賀政男、歌:)• その後、鉄男の講演会が開かれ、登壇した鉄男は在校生らを前に、自分の小学校時代について語った。 売れっ子作曲家、木枯正人(野田洋次郎)とのコンビで「湯の町エレジー」でヒットを飛ばすなど、作詞家として活躍しているが、自らの暗い過去にとらわれ、家族を主題にした歌だけは書けず、第106話(9日放送)では、家族の絆を題材にした映画主題歌の作詞依頼を断ってしまった。
福島時代 野村俊夫(のむら・としお)は、明治37年(1904年)11月21日に福島県福島市大町で、魚屋「魚忠」を営む鈴木忠八の3男として生まれました。
また、典男を演じる泉澤が、朝ドラ「ひよっこ」(2017年)に出演していたことを多くのドラマファンが回顧。
近江俊郎はレコーディングの際、歌い出しの低音がうまく出せず、23回のNGを出したというエピソードがある。